仕事の中で「無知」ではいられない世の中
仕事をしていく中で、いろいろな場面で自分がいかに無知であるかを知ることになる。
でも、僕はその「自分が無知であること」に気づくまでに、実は相当の時間がかかった。
それなりの高校を出て、それなりの私立大学の文系を卒業した僕は、お勉強という世界の中では、それこそそれなりに成果を上げてきた方だと認識を持っていた。もちろんその認識は間違いではなく、確かに僕は「お勉強」というジャンルにおいてはそこそこのレベルをもっていた。
でも、会社に入って仕事をしていく中で知っておくべきことは、残念ながら大学では教えてはくれない。というか、今振り返ってみると、そもそも大学というところは、誰かに何かを教えてもらうために行くところではなく、自ら何かを学ぶために行くのが本当の大学の目的であり使い方である。
まぁ、とにかくなんとか単位をとって卒業すれば良いというふうに考えていた僕は、与えられたカリキュラムの中で単位を取りやすい授業を選択し、成績の高低などほとんど気にすることもなく、授業をうけ、テスト前には友達のノートのコピーを必死になって集め、とにかく卒業要件の単位取得だけを追い求めていた。
当然そんな僕は、自ら何かを学ぼうという姿勢など持ち合わせておらず、ただ漫然と大学に通っていたというのが事実である。この「漫然と」という部分が、実は会社に入って仕事をし始めても変わることなく、僕のスタンダードな姿勢となっていた。
だから会社に入って最初に仕事を与えられても、「漫然と」業務をこなし、「漫然と」日々の時間を費やしていく。それが間違っているなんて、全く考えたことも無かったという状況だった。
そう、実は会社に入っても「漫然と」仕事をしても、正直言ってクビになるようなことはない。特にこの21世紀の日本ではそんなことくらいではなかなかクビにはならない。
でも、「漫然と」しか仕事をしない奴は、正直言って一生出世することはなく、いつまでたっても「仕事」ではなく「作業」ばかりをやり続けることになる。
ここは、価値観の問題だ。
「作業」をやり続けるだけでも十分満足する人もいるし、その生き方を否定するのはつもりも全くない。ただ、延々と「作業」だけをやり続けることは、会社という組織の中で重要な役割を与えられることはほぼないということを知っておくべきだ。
つまり、「出世」は諦めるべきだということだ。
資本主義社会の株式会社においては、実は出世しないと給料は上がらないことになっている。
もちろん、役職なんかつかなくても、ある程度までは役職とは別の「等級」(これは各会社によっていろいろな呼び方がある)が上がっていけばそれなりのところまでは給料も上がっていく。
でも、それは本当にある程度のところまでであり、本当に高い給料を会社からもらっていこうと考えるのであれば、「作業」ではなく「仕事」をこなし、昇進していくことが必要になるのだ。
これは昭和の時代であればまた話は別だったと思う。会社は年功序列になっていて、「作業」しかしていない人でも、ある程度の年齢になれば肩書きがつき昇進していくことができた。正直、それほど仕事ができなくても、市場自体が右肩上がりの中では、有能かどうかはあまり関係がなく、誰がマネジメントをしても売り上げは伸びるし利益は増え、企業は大きくなっていくことができた。
でも、今の日本ではそんなことはない。
有能な人間がしっかりとマネジメントを行うことで、やっと企業は現状を維持することができるような、そんな世の中になっている。
「作業」ではなく「仕事」をきちんとし、身につけるべきものを自分で見つけて、それについて勉強していく。そんなことが今の日本の会社では求められているのだと思う。
アルバイトと正社員の違いに気づけなかったあの頃
会社に入ったばかりの僕は、正直よくわからないまま毎日仕事をしていた。
学生時代にアルバイトをやっていたから、働いてお金をもらうということ自体は一応経験はあったが、きちんとした(?)会社というものの中に身を置くのはやはり初めてのことであり、その頃の受け止め方としてはアルバイトの延長線上に会社員としての仕事があるという程度の認識しか持てていなかったと、今振り返ると認識している。
アルバイトと社員では、実は中身は大きく違うわけだが、その違いを待遇面(給料やボーナス、あるいは福利厚生など)での変化としての捉え方しかできておらず、実際に毎日行う「仕事」という側面では、あまり違いはないというような感覚で捉えていたのだと思う。
僕の社会人生活としての大きな勘違いは、多分この部分の認識の間違いが大きく影響しているのだと思う。あくまでも今振り返るとそうだったなぁということで、その時にはその認識の間違いなど気づくはずもなく、周囲の先輩方を含めて僕にその認識の間違いを教えてくれるような人はいなかった。
なにしろ僕は一人っ子で、そういった事を教えてくれそうな人は身近なところでは父しかいなかったが、父は自分で会社勤めではなく自営の仕事をしており、多分父自身もその僕が今振り返って感じている勘違いの部分をうまく認識としては持っていなかったのだろうと思う。
アルバイトというのは、与えられた役割をきちんとこなすことで給料をもらう。会社員としての仕事も、僕はそれと同じレベルで受け止めていたから、仕事というものは与えられるものだという認識のもとで日々を暮らしていた。
もちろん、その与えられた役割を間違いなく、ある程度のスピードでこなすことが最初は求められているわけだから、それ自体が間違いだというわけではないが、「社員」というものが求められるのは実はそれだけではないということに気づくのに、随分と長い時間をかけてしまったというのが、今振り返っての反省である。
もちろん他にもたくさんの認識の間違いがある。
でも、根本的な部分として、ここの認識違いはある面で致命傷だったなぁと振り返っている状況だ。
わかんないんだよねぇ、そういうのって。
ほんと、振り返ってみてつくづく感じる部分です。
会社にはオキテがある
会社には、オキテ(掟)がある。
そう、会社にはオキテ(掟)があるのだ。
そこにはいろいろなオキテ(掟)があり、オキテ(掟)を知っているものと知らないものでは、その中で生き残ったり這い上がったりすることに大きな差が出てくる。
長いこと会社で仕事をし、サラリーマンを続けていると、だんだんとその掟に気づき、「ああ、そういうことなのね」と会社というものの理解が深まってくる。
残念ながら、それは自分で気づくべきものであり、誰かがなかなか教えてはくれないものである。
そんないろんな掟を、思いつくままにつらつらと書き殴る場があっても良いだろう。
ということで、このブログはそんなところです。